はるきちのへや

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核兵器に思うこと

少なくとも人が人を攻撃する兵器に使っちゃいけない破壊力だわな。

先に言っておくことがある。憲法改正には断固反対だ。
自分自身の人権を大切にしたいなら、現行の改正案は絶対に受け入れちゃいけない。
というか憲法を守るべき立場の人間が憲法改正を口にすることは違憲なんじゃないだろうか。まことに遺憾だ。
この国には、憲法を変える云々以前に考えなきゃいけないことが山ほどある。

長崎の平和式典において、日本以外のG7加盟国、EUが欠席とのこと。
理由としては戦渦イスラエルを招致しなかったことが挙がっているようだが、長崎市としては「戦争」に対して毅然とした態度を示した結果がそういった形に繋がっただけであって、このような対応を見る限り、どうしても欧米諸国は戦争を肯定しているんだな、と感じてしまった。
少なくとも一般市民レベルでは世界中において誰もそんなことは思っていないだろうけど、外交は戦争ありきであって、軍需が国益につながるからこそ、仮想敵を見繕ってきては、攻撃する理由を生み出したいんだろう。

新世界より

多少のネタバレにはなるが、2008年初版の小説なのでご勘弁を。
この物語では、千年後の世界が、今まさに僕たちが暮らす時代においてPK(サイコキネシス)を身に付けた人間が増えたことで、今の文明が一度崩壊したその後の姿として描かれている。
PKは脳内でイメージしたことを現実に反映する。物を動かすだけでなく、燃やすことだってできるし、イメージが作ることができれば地球を真っ二つに砕くこともできると言われるほど無限に近いエネルギーを生み出すことができる。
これを対人攻撃に使用したとすれば、一個人が現代の核兵器を大きく凌ぐ破壊力を持っていることにもなり、PKが使える人間と使えない人間との戦いが結果として文明の崩壊を招いてしまったのである。
PKはのちに呪力と呼ばれるようになり、呪力を持つ人間が新しい世界を構築した。
呪力は攻撃性能があまりにも高すぎるため、他人の呪力への恐怖は無意識に自己防衛へと繋がっていく。早い話が「やられる前にやれ」である。
呪力による対人攻撃への脅威をなくすために、呪力を使って遺伝子を組み替えることで、同胞に対する「攻撃抑制」や、同胞への攻撃を少しでも意識した場合に自分に対して呪力によってダメージを与える「愧死機構」を埋め込んだ。
愧死機構は、人が人を殺した場合、殺人を犯した側も自分の呪力によって死んでしまうぐらい強力なシステムだ。
こういったメカニズムに加え、幼少からの徹底的な教育によって和睦的な社会の構築を徹底している。

この物語の中でも、古代文明におけるもっとも攻撃性能の高い兵器として「核兵器」が挙げられているが、新世界を生きる人々から見ても、それは明らかに過剰な攻撃力、破壊力を持つ兵器として見られていて、人が持つ攻撃的な狂気に対して辟易するような描写がある。
他人への攻撃を想定しない社会からすれば「核兵器」は「異常」でしかないのだ。

それが近現代社会で2度も使用された現実があること。そしてそれが実験的な性質を内包していたこと。さらにそれが数万人の人々を実際に殺戮していること。
年月がすぎて当時を知る人はどんどん少なくなっていくが、こんな兵器が二度と使われちゃいけないことぐらい、攻撃抑制があろうとなかろうと当事者でなくとも誰にでも共有できる感覚だと思う。
IFの世界として、現代において今この瞬間に「愧死機構」が人類に備わったとしたら、それだけで死んでしまう人間はきっと少なくないんだろうな。

岸田は「核兵器禁止条約」に署名していない

「核の傘」は核兵器を持つ他国に対する報復手段として、また先制攻撃を牽制するための抑止力として捉えられているが、おおきく見方を変えてみたら、核を持たないことは戦闘する意思がないことの表明にはならないだろうか。

資本主義の悪影響かもしれないが、世界で2度も大きな戦争をした歴史があるにも関わらず、この期に及んでまた戦争をしたいのか。そんなこと誰も望んではいないでしょ。
戦争をする意思がない。反撃しない。こんな状態では殴られ放題ではないのか?
否、戦争を吹っかけてこない相手には脅威を抱くことがないのだ。
性善説、平和ボケだと言われても、この原理は「核の傘」とそう変わらないと信じている。
それでも他国への軍事行為を働こうとする国があれば、非戦闘行為である外交によって糾弾すればいい。
核兵器を二度も使いながら、第二次世界大戦後においても未だに絨毯爆撃をしているような国を非難すればいい。

核兵器を使用され、甚大な被害を受けた国として、「戦争」に対して「ノー」と突きつける意思表明は、「戦争をしないこと」、「非核三原則を守り抜くこと」以外にない。

日本の現実は、ウクライナへの支援によって間接的に戦争をしてしまっているし、「核兵器禁止条約」に署名するなんていう簡単なこともできない情けない国だということ。
(蛇足だが、僕の考えはロシアを絶対悪と見做していない)

その一方で国内において、その意思の固持を世界に向けてしっかり表している長崎市はこれこそ平和主義の理想的な姿だと思う。
平和に必要なのは「核の傘」ではなく「愧死機構」なんじゃないかとどうしても夢想してしまう。

俗に言う陰謀論的な視点じゃなかったとしても、近頃の世界で起こっている事柄には、どうしてそんなことをする意味があるのかわからないような、ときに狂気すら覚えるような珍事がどうにも目立っているように思うのは僕だけだろうか。

ちなみに「新世界より」は10年前ぐらいにアニメ化もされていたりもするんだけど、狂った世界を見てみたいとか、「橋本・アッペルバウム症候群」って言葉を聞いてなんだかソワソワしてしまうような人にはとてもオススメのSFだ。
新世界よりに関してはアニメで好きになった作品というのもあるけど、原作は読んだことがなくてようやく手を付けた。
と言いつつ、実はブルータスのこの表紙にそそのかされて、最近はSFを中心に小説を読むようになって、入口として選んだ感じ。SFは勉強にもなるからいいよね。

タイパ重視の集中力がない新人類には到底読み切ることのできないページ数を誇る大長編。心して挑戦してほしい